Chihoのちょっとした話

 

【フェスティナ裁判 その1 2年間の沈黙を破ったヴィランク】

2000年10月24日、その日はいつものように曇り空で、寒々しい風が吹いていた。前日からリールの裁判所では、2年前に起こったフェスティナドーピング事件の裁判が行われており、フランス中の注目を集めていた。みんなが注目していたのはドーピングよりヴィランクだった。2年前、あの事件が起こるまではフランススポーツ界の英雄だったリシャール・ヴィランク。ツールで山岳賞を取り、水玉のジャージで一躍有名になったヴィランクは、シーズン・オフの冬はテレビにひっぱりだこで、バラエティーから音楽番組、はたまたミスコンテスト審査員などいろんな番組に顔を出していた。そして、“ヴィランクマニア”と称される現象まで起きていた。そんな彼に一転して悲劇が起こる。

98年の夏、フェスティナの車からドーピング薬物が大量に発見され、フェスティナの組織的なドーピングが暴露したのだ。チームメイトたちは次々とドーピングしていた事を認めたが、エースのヴィランクだけは無実を主張した。今まで脚光を浴びてきたヴィランクにとって、ドーピングを認める事はどうしてもできなかったのだ。それはヴィランクだからではなく、これほどのスターならたいていの選手は否定するであろう。ドーピング検査で引っかかったワケではないのだ。ただ、チームカーから薬物が見つかっただけ。こうして、ヴィランクは無実を言いつづけた。しかし、捕まったソワニエ(介添人)のフォイトが、選手それぞれに使用した薬と日付を書いた手帳を公開し、ヴィランクもドーピングしていた事を主張。ヴィランクは無実を主張するが、世間ではヴィランクとドーピングの関係は明らかであった。だから、テレビの番組ではヴィランクに扮した人形が、注射を打たれながら「僕はドーピングしてない。僕は無実だ」などと言って、すっかりお笑いの種になっていた。こんなにも、ヴィランクの評価は落ちてしまい、ついにはフェスティナとの契約が断たれ、その年の12月にはヴィランクの引退説がささやかれた。

年が明けて、こんなヴィランクを拾ってくれるチームがあった。イタリアのポルティーだ。1月半ば、ヴィランクの移籍会見がパリで行われ、「プロとして走るチャンスを与えてくれて本当にうれしい」と喜びに満ちたヴィランクが姿を見せた。しかし、一方でフォイトがフェスティナのドーピング事情を赤裸々にした暴露本を発売し、さらにヴィランクとドーピングの関係が明らかになっていった。
そしてこの年のツール前に、あまりにもドーピングイメージの強いヴィランクはツールには不適切として、主催者からツール出場を拒否されたのである。しかし、いざこざのすえツール間際に許可が下り、ヴィランクはなんとかツールに参加することができた。

2000年、ヴィランクはポルティーで走り、山岳賞は取れなかったもののツールでステージ優勝を上げ、順調なように見えたヴィランクだった。しかし、ポルティーとの契約は切れ、新しいチームも見つからなかった。そして、追い打ちをかけるように、シーズンオフに入った10月23日から2年前の裁判の続きが行われた。

この裁判は、フェスティナのドーピング薬物運搬に対する責任者を問う裁判だったが、エースであったヴィランクが頑なに無実を続けたために、チーム内でドーピングを率先して、ドーピング使用を誘発した共犯者の可能性があるとされ、この裁判で選手として唯一被告人になっていたのだった。裁判の始まった日から世間の注目は無実を続けるヴィランクだった。「あれから2年、ヴィランクは真実を言うのだろうか?」

裁判初日は、フォイトが最初に尋問を受け、フォイト手記の暴露本に記されているヴィランクにとって初めてドーピングの洗礼を裁判官に告げた。それは1993年のクリテリウムインターナショナルでのことだった。このレースは、2日に渡って行われ、2日目にロードとタイムトライアルの2レースが行われる。ヴィランクは初日5位以内でレースを終え、その夜のマッサージの時にフォイトと相談の結果、即効性のシナクテン(コルチコイド)を投入する事に決めた。しかし薬物が身体に合わず、翌日タイムアウトでリタイアしてしまう。

ヴィランクの尋問は、裁判から「あなたはフェスティナチームのエースでしたね。ドーピングをさせられていたのですか、それともあなた自身が必要としていたのですか?あなたはチームメイトたちに、ドーピングをしやすくする働きをしていましたか?」の問いに対して、ヴィランクは「レベルの高いスポーツでは、健康によい栄養を取るために一定の維持費がかかります。この規律を破ると、仕事上長続きしません」と答えたため、「私の質問の意図と違う返事をしています。あなたは、ドーピングされた時がありましたか?なにか薬物を投薬しましたか?」と再び質問された。これに「はい」と弱気な声で言い、「どんな薬物でしたか?」との問いに、「ビタミンや滋養強壮剤は投与していました。僕はレイカールト医師をかかりつけの医師として信用してました」と答えた。そして、フォイトとのドーピング洗礼の件を聞かれ、「よくするために、なにかを投入されたのは覚えています。集団について行けず棄権しましたのも覚えてます。でも、ドーピング行為をしたという感覚は全くなかったです」と答えた。

そして裁判2日目、その日はヴィランクの尋問は予定されていなかった。しかし尋問が始まる前に、ヴィランクの弁護士が裁判官にヴィランクが言いたいことがあると告げた。裁判官は「これはリシャール・ヴィランクの裁判ではありません。誰もあなたを苦しめようとはしていないのです。でも、私たちはそれらのことを理解しなくてはいけないのです」と言ってから、「あなたは何を言いたいのですか?」とヴィランクに尋ねた。そして、ヴィランクは「あなたもご存知の通り、私の最初のツールは25位でした。バッソンが言うように、私はそれをドーピングなしで成し遂げました。フェスティナに所属した時、組織ができていたのです。それは私ではなく…」とヴィランクがあまりにも遠まわしに言うので、裁判官は会話をさえぎり、「あなたがドーピング依存者と言う観念は、横に置いておきましょう。真実を言うことを承諾してくれますか?あなたはドーピング薬物を投与されていたのを知っていたのですね」。この裁判官からの問いに、裁判を傍聴している全ての人が息を呑んでヴィランクの答えを待った。法廷に沈黙が漂い、この静寂をたち切るヴィランクは返事は、蚊の泣くような声での「OUI(はい)」だった。

そして、震える声で「私のスポーツに対して、私は不正行為はしていません。あなたはこの世界の人ではないので、どういうものか知らないでしょう。自転車界では、ドーピングとは言わないのです。準備のための健康検査というのです。ドーピングとは不正行為をすることで、それは(検査で)陽性になる事です。私は彼ら(選手たち)に対して、不正行為はしていません。私は、いつも限界を守っていました」と告白した。これに対し裁判官は、「あなたは、これでひと回り大きくなりました。これで、本当のあなたが鏡に映し出されるでしょう」と締めくくった。静まり返った法廷は、このヴィランクの告白で一転して大騒動となった。「ヴィランクがついに認めた!」

その後、予定通りに証言などが行われ、11時30分に午前中の公判が打ちきられた。一般の傍聴席の人々が法廷から退出させられたあとも、席に座っていたヴィランク。フォイトが近づいて行き、「よくやった」と声をかけると、ヴィランクは涙をこらえきれなくなり、フォイトと互いに涙を流し抱きあった。そして、8年間親子のように親密な関係だった2人の絆が元に戻った。
   Voet:「あまえはやっと分かったんだ。誰も殺しちゃいないんだよ。結局、おまえもおれも他の奴らも組織の被害者なんだ」
Virenque:「でも、僕はもうだめだ」
   Voet:「長い間しなくちゃ行けなかったことをやっとしただけだ」
Virenque:「ぼくは、失業者になってしまった」
   Voet:「それがどうしたって言うんだ。浮浪者になったわけじゃないだろ。やっと気分がよくなったんじゃないのか?」
Virenque:「告白して気分がよくなったのは確かだよ。」

ヴィランクの告白は、その日の一大ニュースとなり、たちまちヨーロッパ中を駆け巡った。
しかし、フランスで反応は「とうとう告白したか」と言う感じだった。

告白したあと、お父さんと傍聴にきた子供がヴィランクにサインをもらうシーンがテレビで流れていたし、実際私も母親に連れられ法廷に入ってきた子供がヴィランクにサインをもらっているのを見た。結局のところ、ヴィランクはドーピングの事実を認めてもヴィランクであり、子供達だけでなく大人達もサインを求めるフランスのスターなのだ。2年間たって真実を告げたヴィランクに対する世間の評価は上がることはあっても、もう落ちることはない。

 

 

11月19日
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