監督のお仕事

 「ツール・ド・フランス速報’99(メディアハウス発行)」で取材したカジノチームにできあがった本を渡すため、8月17日〜20日に渡って行われていたツール・ド・リムーザンに途中から行って来ました。ラヴニュー監督とは、昨年のダンケルクの4日間レース以来、会うたびに挨拶する程度だったのですが、取材以来スタッフの人達とも仲良くなり、ついに監督の車に乗せてもらう事が出来ました。「この地域は、観客より牛の数の方が多いんだよ」なんて、監督が言うように、ほとんど草レースみたいな感じでした。だから、すんなり車に乗せてもらえたのかも?でも、私にとっては貴重な体験です。ありがた、ありがた。

 監督車に乗って、つくづく思いました。監督と言うのは本当に大変な仕事なんです。この時期、スポンサー契約の話やなにやらで、レースが始まってすぐは携帯電話が鳴りっぱなし。電話に答えながら車を走らせ、レースの無線呼び出しで加速し他の車を抜き、チーム同士の無線機(選手が付けているやつ)に応える。この3つの作業を同時にこなしてしまうのです。それも、マニュアル車です。「一体、手がいくつあるんだろう?」なんて見てみたら、肘で運転していました。お見事!

 このラヴニュー監督、かつてはプロとして走っていて、ツールにも出場。引退後すぐ監督になり、中小企業を中心に、苦労してチーム資金を集め、年末ぎりぎりでシャザルという肉の加工会社をメインスポンサーに、チームを発足。それ以来、8年間監督を続けています。

 「選手時代と今ではどう違いますか?」と尋ねてみたところ、声がトーンが変わって、「選手時代が良かったよ。一度あの絶頂期を体験したら、やはり普通の生活は違うね。体のメカニズムが全く違うんだ。風とか自然を感じながら体全体で走られた選手時代が良かったよ。でも、こうやって車でレースを追いかけて、勝つ喜びを一緒に味わえるから、今も満足だけどね。」と熱をこめて、選手時代を懐かしむかのように語ってくれました。

 現役時代のラヴニュー監督、ぜひ見てみたかったです。家にビデオあるかな???

 レース中は選手の性格に応じ、集団に入って「やればできる、自信を持ってがんばれよ」と声をかけに行ったり、「次はカテゴリー3の峠だから、幸運を祈るよ」なんて、茶目っ気たっぷりで応援。でも、最後の勝負に入ると、「コフィディスの動きに気をつけろ!」とか、「今なら、行けるぞ」など、本格的な指示を出して緊迫した雰囲気でした。

 この日、うれしいことに見事ヴィノクロフがステージ優勝し、レース後もラヴニュー監督は、報道陣や観客の人々との会話に長い時間を割いていました。いろんな人との会話によって、チームの知名度をあげること、これもラヴニュー監督にとっては一つの仕事のようです。

 翌日の最終日のレースが終わると、監督自ら再びチームカーを運転し、600キロ以上離れた本拠地のあるシャンベリーに、選手を連れて帰っていきました。その数日後には、また600キロ近くを走り、次のレース会場に移動です。自転車レースは選手も過酷ながら、チームスタッフも並じゃありません。小さいレースでも、チームカーが3台くらい(レース追走用、メカ・食料用トラック、選手運搬用ワゴンカーなど)は必要なので、毎回大移動です。本当に自転車好きでないと毎日やっていけない仕事だなと監督・スタッフの仕事ぶりを見て思いました。

 こんな自転車ラブリーのラヴニュー監督なのですが、現在チーム継続の危機に陥っています。ツール・ド・フランスでは、キルシプーがマイヨジョーヌを6日間も着て、世界中にネーミングを広めたカジノチームなのですが、やはり今年限りでカジノがメインスポンサーを降りてしまいます。「マイヨジョーヌを取っても、メインスポンサーの意志に効果がなかったのは残念だよ」と、監督がガッカリした声でつぶやいていました。

 来季のスポンサーはまだはっきり決まっていないのですが、自転車競技に対して熱心な監督を信じて、現在の選手たちのほとんどが監督について行くようです。

 ラヴニュー監督のチームスポンサーをしたいと言う日本の企業はどこかないでしょうかねぇ?

 2000年、ラヴニュー監督のチームが無事できることを祈って。

スピーカー(レース解説)、マンジャス氏の
インタビューに答えるラヴニュー監督
(ダンケルク4日間レースにて)

 

99年9月5日作成


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